片想いⅡ

 

 そして季節は巡り、再び十二月を迎えた現在―――。

由季子が思い出すのは、親切なあの運転手、関口章吾のことだった。

もし彼がいなかったら・・・と、時々由季子は想像するのだった。

一人で空港の椅子に何時間も座っていたら、私はどうなっていただろう?

自分では大丈夫のつもりだったけれど、時間が経つにしたがって、だんだん落ち込んでいったかもしれない。その可能性は十分にある。そう由季子には思われた。

夫を憎悪し、自分を哀れみ、ついには心の臨界を超えていたかもしれない。理性を失って立ち上がり、あと先考えずにスーツケースを置いて走り出し、空港を飛び出していたかもしれない。そうしたら、車に轢かれていたかもしれない。海に身を投げていたかもしれない。路上で凍え死んでいたかもしれない。

こんなふうに考え始めると、彼が命の恩人のように由季子には思われてくるのであった。

事実、夫の愛人問題が発覚して以来、由希子は一度ならず死を考えたことがあった。

信じていた者に裏切られる。その痛みはあまりに強烈で、耐え難いものであった。まるで爆風で大火傷を負った時のように、痛みの凄まじさに、のた打ち回るのである。すべてが虚しく、自分を価値のない者だと感じた。一日一日が長く、明日に希望が持てなかった。心は死を願うばかり・・・。

 自死を思いとどまったのは、周囲の悲しみを思ったからであるが、通りすがりの他人を気にかけてくれた、あの運転手の親切も助けになった。彼のことを思い出すたび、「自分を大切にしよう」と、由季子は自らに言い聞かせたのだった。

 

どうしていらっしゃるだろう?

お元気かしら?

彼にメールしたいと思いつつ、返事がもらえなかった場合を思うと、勇気が出なかった。

一年も経っているのだ。アドレスだって変わっているかもしれない。 

結局、この日はメールもできず、由季子が意を決して彼にメールを送ったのは、三週間後のクリスマス・イブだった。

深呼吸をして、気持ちを整え、何度も打ち直して、ようやく書き上げた。

 

 ご無沙汰しています その後 お変わりありませんか?

 私のこと 憶えておられますか?

 一年前の今日 クリスマス・イヴにあなたのタクシーに乗り 助けていただいた東京の高原由季子です

 でも今は離婚して 実家の神奈川に住み 姓も旧姓の浜田に戻りました

 おかげさまで元気に暮らしています

 メールさせていただいたのは 改めてあの時のお礼をお伝えしたかったからです

 ありがとうございました

 あなたのおかげであの街を 嫌いにならずにすみました

 

もっと上手に書きたいと思ったが、文章を書くのが苦手な由季子にはこれが精一杯だった。

すると二 三分後に返信が届いた。

 

 浜田由季子様

 お久しぶりです メールありがとうございます

 お元気そうで安心しました 関口章吾

 

短い文章だったが、由季子はどれほど嬉しかったことか。

少し迷ったが、勇気を出して、再びメールしてみた。

 

 ありがとうございます 返信いただいて 嬉しかったです

 ご迷惑でなかったら これからも

 時々メールさせていただいてよろしいでしょうか?

 

返信は四分後に来た。

 

 お返事できない時もあるかもしれませんが いつでもメールください

週に一度か二度。由季子がメールすると、章吾から返事が届いた。

ほとんどが天気か体調の話。雨が降ったとか、風が強いだとか、風邪気味だとか、疲れて早寝をしただとか。

 章吾はプライベートについて多くを語らなかったが、横浜にいた頃は、

 

 バンドで ギターの弾き語りをしていました

 

と教えてくれた。

 

 売れなくて 故郷に帰ってきました

 母と二人で ほのぼの暮らしています

 

由季子は章吾のことをもっと知りたいと思った。それができなかったのは、立ち入ったことを質問して、退かれてしまうのを恐れたからである。

 メールはもっぽら由季子が送って、彼から返信が来るという形だった。でも、必ずあるというわけではなかったし、現在の二人の関係を言い表すならば「メル友」。それ以上の進展はなかった。

 

 

 

 季節は巡っていた。

桜の花びらが風に舞い、紫陽花が雨に咲いた。朝顔が蔓をのばし、ススキがやわらかな秋の陽を浴びている。

 二人の距離感は変わらなかったが、章吾はいつのまにか由季子にとって、かけがえのない大切な存在となっていた。

 あの人にとって、私はどんな存在なのかしら?

 携帯電話を眺めながら、由季子は時々ため息をつくのだった。

 仕事の合間の息抜き程度?

 メールがこなければ忘れてしまう?

 そんなふうに受けとめられるほど、返信のメールはいつも受け身で、短いのである。

 

 夜の帳に浮かぶ月。

 ―――会いたい。

 思いが募ると、由季子は月を眺めて、涙を流した。

 

 いつ会えますか?

 

以前、勇気を出して送ったメールには、一週間経っても返事がもらえなかった。

悩みに悩んだ末、

 

 こちらの天気は今日雨です そちらはいかがですか?

 安全運転 気をつけてください

 

とメールすると、十二分後に返事が来た。

 

 こちらも雨です

 寒くなってきましたね 風邪に気をつけて

 

前のメールは完全にスルー。

どうしてなのかわからず悩んだが、メールはもう来ないかもしれないと覚悟していたので嬉しかった。ともかく返事をくれたのである。二人の関係が断たれたわけではなかった。

彼を失うことは由希子には耐えられなかった。どんな形であっても章吾に、自分と関わっていてほしかった。

 

 群青の空に月が輝くある夜―――。

 庭のテラスに座っていると、弟の尚人がやって来た。

 「綺麗な月だね、姉貴」

 ベンチャー企業に勤める尚人は、家にいてもたいてい自室でパソコンに向き合っている。庭に出て姉に話しかけることなど、めずらしかった。

「どうかした? 尚人」

「それはこっちのセリフ。この頃どうした? 離婚、まだ引きずってる?」

由季子は笑って答えた。

「それはないわ」

「じゃあ、恋人の悩み?」

「まさか・・・」

「大当たり!」

尚人は笑って月を見上げた。

「相変わらず、姉貴は噓が下手だなあ」

「嘘じゃないわ。片想いだもん」

「白状したな。相手は独り者?」

由季子は観念して、章吾と出会ったいきさつを打ち明けた。

話を聞いた尚人は非常に驚いたようだった。

「頼みもしないのに最終便まで付き合ってくれた? まるでドラマだね」

「親切な人でしょう」

「親切というか、奇特というか。普通、そんなことしないよ。オレだったら、ありえない」

尚人にすべてを打ち明けて、心が軽やかなった由季子は、いままで一人抱えていた本音を吐露し始めた。

「メールをもらうと嬉しいけど、返ってこないと、すごく不安になるの」

夫に裏切られ、拒絶された由季子は、強い人間不信に陥っていた。深く痛手を負った心は、今もなお血を流し、疼き続けていた。信じていた者から刃を振り下ろされた心の傷は、未だ癒されていなかったのである。

「付き合いたいとか、再婚したいとか、そういうことを彼に望んでいるわけじゃないの。あの時、どん底だった私を助けてくれた、恩人の幸せを願っているだけ。健康でいられるように、幸せでいられますように、毎日祈っていて、それだけで満足なの。でも、つらくて・・・・」

そうつぶやくと、由希子は祈るように両手を胸に組んだ。

「いつか、メールが来なくなるかもしれない。私と関わるのをやめようって、彼が思うかもしれない。馬鹿みたいでしょう、私・・・。その時はその時、いまそんなことを心配しなくていいって、わかってるのに・・・。どうしてもそんなふうに考えてしまう自分がいるの。だからその前に、メールするのをやめようって、何度も思うんだけど、できなくて・・・」

尚人に向けられた由季子の顔には、涙が幾筋伝っていた。

「あの人は私の心の支えなの。あの人にまで拒絶されたら、生きていけない。でも・・・傷つきたくないの。もう、絶対に、これ以上、傷つきたくないの」

「恐れるなよ」

月明かりの庭に、尚人の声が響いた。

「そいつのことがそんなに好きなら、傷つくことを恐れないで、傷つくことも引き受けて、そいつのこと、思い続けていろよ」

その声は深く、まっすぐで、この庭を照らす月の光のように澄んでいた。

「人生ってきびしいんだ。生きていくって大変なんだ。一度しかないそんな人生に、好きな相手に出逢えるって、すっごく素敵なことなんだ。姉貴を裏切った最低なあんな奴のせいで、臆病になるなよ。信じることや愛することを、あきらめるなよ。片想いだっていいじゃないか。好きな相手を一途に想うなんて、姉貴らしいよ」

「尚人・・・」

尚人は照れたように下を向くと、ポツリと言った。

「ちょっとキザかな」

 

  その年のクリスマス・イヴ。

青葉の空には満天の星がきらめいていた。地上ではイルミネーションの光がまたたき、道行く人を赤や緑に照らしている。

 

リビングルームでひとり由季子はクリスマス・ツリーを眺めながら、章吾と出会った二年前のイヴの日を思い出していた。

通りの向こう側からUターンしてきたタクシー。ドアが開いたので、由季子は中に乗り込んで言った。

「空港までお願いします」

すべてはここから始まったのだ。

あの時、もし夫のマンションを出るのがもっと遅かったら、または早過ぎて別のタクシーをつかまえていたら、彼とは出会わなかった。

そう考えると、章吾と出会った偶然が天の計らいのように由季子には思われるのであった。

相変わらずのメル友。距離感もそのままだが、それでも良かった。何も求めず、期待せず、ただ彼の幸せを祈るだけ。章吾の存在そのものが、いまでは由希子の心の支えだったからである。

携帯電話を取り出すと、由季子は章吾にメールを打った。

タイトルは「記念日」。

 

あなたに出逢って三度目のクリスマス・イヴ

メールを始めて一年目 今日は私たちの記念日です

テレビによると そちらは雪だそうですね

ホワイトクリスマスは素敵ですが 雪道の運転 気をつけてください

ご健康が守られますように お祈りしています

 

二度読み返し、章吾の宛先を確かめて、送信した。

 

落葉シティは雪明りに包まれていた。

イヴの今宵、道行く人はプレゼントを抱え、あるいはケーキの箱を手に、クリスマスソングの流れる雑踏を行き交っている。

鮮やかな真紅の帽子とコートが人目をひいている。マダム朱鷺子が抱えているのは白菊の花束であった。

商店街を抜け、狭い路地を通り、馴染みの町内に入っていく。

表札に「関口」とある古い一軒家の前に着くと、「ごめんください」と、朱鷺子は玄関の引き戸を開けた。

「よく、来てくれたわね」

出迎えたのは幼なじみの和江だった。

 

奥の間のこたつで和江と朱鷺子は、お茶を飲みながら向かい合っていた。

「あれから二年経つのね」

茶碗を手に朱鷺子がため息をついた。

部屋には線香の匂いがたちこめていた。

「お客さんを空港まで送っていった後だって言ってたわ」

和江が遠い眼をして言った。

「電話をくれて『お母さん、これから帰るから』って」

「事故はその帰り道?」

「居眠り運転のトラックが対向車線を越えてきて。即死がせめてもの慰めね」

和江は涙声になり、目頭を押さえて続けた。

「苦しまなくてよかった・・・」

「本当に・・・」

相槌を打ちながら、朱鷺子は部屋の隅に目を向けた。

蝋燭の灯った仏壇に章吾の写真が飾ってあった。仏壇の横には愛用のギターがたてかけてある

「あら」

写真の横の携帯電話を見て朱鷺子が声を上げた。

「光ってるわよ、和ちゃん」

「章吾の携帯・・・」

視線を携帯電話に移して和江が答えた。

「なぜか時々光るの」

「音が鳴らないのに?」

「こわれてるもの」

「こわれてるのに光るの? 不思議ねえ・・・」

「最初に光ったのは、去年のクリスマス・イヴ」

「それって章ちゃんの命日じゃない」

「そう。命日だったから、あの子が帰ってきたような気がしたのよ」

「それからも光るの?」

「週に一度か二度」

朱鷺子は点滅を続ける携帯電話を不思議そうに見ていたが、やがて涙ぐんで言った。

「ひとりぼっちになったお母さんを励ましてるのよ、きっと」

「優しい息子だったから」

和江はほほえんで、窓の外に眼をやった。

街路樹のイルミネーションがきらめき、辺りをお伽話の世界のように染めている。

聖夜の空には星屑が光っていた。

 

 

目次(上部 ナビゲーションについて)

 

ホーム/一番初めのこのページです。

落葉シティより/落葉シティの全8話より毎回1話の抜粋を掲載。それに対してのコラム。

一歩二歩 フォト散歩/掲載した写真をまとめてます。

お知らせ 本の紹介/落葉シティの紹介と購入方法

あなたも落葉シチズンになりませんか?ひとこと(返信)/ホームページ参加のご案内と 

                          感想、ご意見が返送出来るページです。

 

 

 

  🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 🍂 

                                         おかだ てつお(千葉県在住)

                                         *写真はすべて©T.Okada